物語の存在意義
本家に物語()を書くようになって早7年になる。イヤハヤ時のたつのは速いものだ。
実を言って私がキーボードを叩く速さというのは結構早い。時間がかかるのはやはり下調べとか数値のデータを取ることだ。例えば「有益な環境側面」なんてうそを騙っているのは誰かとか、今でも環境側面を点数で決めろと言っているのは何人いるのかとか調べるとすぐに二晩くらいかかってしまう。
それに比べると審査員物語とかは、過去の自身の経験とか伝聞(といってもソースあり)を取捨して書く(叩く)のはキーボードの練習のようなもの。某国人は息をするようにウソをつくと言われているけれど、私が文章を書くのは息をするようなもの。
とはいえ、そんなことをしていていいのかな? 世の中に役に立っているのだろうかという疑問は多々ある。
実を言って私が現役時代に敵対した審査員のほとんどが今年までに引退したようだということがある。
彼らの後進が彼らよりマシかは定かではないが、今審査員をしている人たちと私自身が合いまみえたわけではないから恨みもつらみもない。仮に現役の企業の担当者が現時点の審査員に憤りを感じているなら、そういった悪の枢軸と戦うのは私ではなく現役の企業の担当者であろうと思う。
となると物語()の存在意義はなく、それを各意味もない。意味がないなら無意味だが・・
毎度同じようなことを描いているが、悩みは一刀両断できないから悩みなのである。