ディーゼルエンジンの黄昏

日本の自動車メーカーがディーゼル乗用車から撤退するという記事があった。 2018/05/31付け読売新聞 頭に浮かんだのはフォルクスワーゲンの排ガス不正というのか、検査のときだけ排ガスの数値を上げるようにプログラムを組んだという犯罪だ。ヨーロッパしかもドイツの冠たる自動車メーカーが企業ぐるみでとんでもない悪事をした。ということはディーゼルエンジンというのはやはり無理があったのだ。 無理があっても建前のためにはやせ我慢をしてディーゼル乗用車を作らねばならぬ、止めてくれるな明春殿ということであったのだ。平手神酒は斬られディーゼルも切られたということだろう。 一事が万事というのは一方的で断定的な言い方で私は嫌いだ。とはいえ環境問題への対応策というのは欧州のディーゼル乗用車のような愚策が多々見える。そして無理を承知で生きていく意識高い系が鼻高々ということも多々あること。だが意識高い系が敬われながらも遠ざけられるのは学問がなくても人間は本質に気づくからだろと思う。生まれも育ちも郡山の家内の知り合いが、東日本大震災の原発事故のとき旦那さんを置いて子供たちと九州に移り住んだが周りの人はミーンな冷ややかだった。 私の住むマンションに有機野菜とすり切れたレコードのように語る老婦人がいるがはっきり言って浮いている。 環境を極める方はいばらの道のようだが、自分からいばらを好んでいるとしか思えない。   本日は本家を更新しました。 異世界…

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