標準化の功罪
標準化の功罪といっても真面目な話ではない。
私が高卒で会社に入ったとき先輩にものすごく考える人がいた。その人からいろいろと教えられた。
ラジオ体操で腕を回す運動をするとき、右手を手前にするか左手を手前にするかはその人の癖でだいたい決まっている。それでは運動にならないから1回ごとに右手を手前、左手を手前にすると運動になるんだと教えてくれた。その人はすべてに渡りそういう発想で歯を磨くときも朝は固い歯ブラシ、夜は柔らかい歯ブラシを使うと磨き残りがなくなるという。
それはともかく先輩は標準化しない方が良いとは言わなかったが、チェックするときも順序を変えたり、日々の仕事の手順を変えたり工夫をしていた。その結果、良い方法が見つかることもあり、従来の方法が最善と分かったこともある。
そういう地道な努力のおかげか、先輩は高卒だったが結構出世した。
とはいえ50過ぎのとき上司ともめて早期退職してからパチンコだけが生きがいのようで、そこはあまり尊敬できない。なお、先輩が退職してから取引先と未処理がものすごくあって、彼の評判は地に落ちた。
今振り返るとあの先輩はやはり只者ではなかったと思う。
考えなしに標準化するのではなく、多様なアプローチをして最善のものを基準にするのはもちろんだが、時が経ったときそれが最善かは常に検証されなければならない。
きっと今はパチンコの打ち方の最善策を考えているのだろう。
毎年年賀状のやり取りだけだが、また一緒に酒を飲みたい。