東日本大震災から14年
長いようで短く、短いようで長い。
私も子どもたちも、家内の実家も地震と津波の被害は受けなかった。しかし家内の実家は、放射能が危ないと言われたところと近くである。郡山市の郊外というより全町民が避難した町との、境界線に近いところだ。
義母は小学1年と幼稚園の彦(私から見て大甥と大姪)たちが被爆しないように市から放射能を図る機械を借りてきて、家の前を図り大丈夫というところをロープで囲い、そこから出るなと言って遊ばせたという。
その彦たちももう高校生と中学3年になった。
当時娘は横浜で働いていた。大きな揺れでお客さんが逃げ惑うのを、指示して屋外の駐車場に引率したという。制服を着ていたからできたと後で言った。その後娘は転勤族の婿さんと一緒に、新潟、再び神奈川、そして今は秋田にいる。
息子は仙台空港の近くで仕事をしていたが、大地震の2年ほど前、体を壊して退職して私たち夫婦と同居していた。あそこで働いていたら、津波に呑まれていたのは間違いない。まさに塞翁が馬である。
私の叔父は仙台に住んでいたが、80過ぎて避難生活になり、体を壊して亡くなった。
いろいろあったが、皆元気に生きている。
今はわが故郷の原発が処理できるように祈るしかない。
そして予想される地震に耐えるよう準備をして無事過ごせるようにしたいと思う。